「やらない善よりやる偽善」は、嘘かもしれない。「やらない最善よりやる次善」は、絶対に正しい。

「やらない善よりやる偽善」って、聞いたことありますか?

「やらない善よりやる偽善」って、いっとき、ネットでよく聞きましたよね。
Pixiv百科事典の記事によれば、2000年台前半に有名になってきた言葉であるとか。

やらない善よりやる偽善
「やらない善よりやる偽善」は、いくつかの活動において2ちゃんねる内に書き込まれ有名になった「しない善より、する偽善」という言葉が時間の経過で変化した言葉。

同記事中でも触れられていますが、有名な漫画作品『鋼の錬金術師』でも、戦地で人を救うロックベル医師が「やらない善よりやる偽善だ!」と啖呵を切っていました。

なんとなーく正しい印象のある「やらない善よりやる偽善」ですが、実はこの命題は、常に真というわけではありません。
「やらない善よりやる偽善」が真である場合と、偽である場合について考えてみましょう。

「やらない善よりやる偽善」の真偽は、「偽善」の定義に依存する

「偽善」とはなんだろう?

「やらない善よりやる偽善」の真偽を考えるためには、「善」や「偽善」の定義について考えないといけません。
特に分かりやすい「偽善」の方の定義を考えてみましょう。

なにか「善」っぽい行為であって、その「善」を「偽物」たらしめる要素を備えているのが、「偽善」と呼ばれる行為です。

「善」が「偽物」か「本物」かを判定するには、少なくとも3つの基準が考えられます。

  • 「まごころ」由来であるか
  • 別の場面で、悪いことをしていないか
  • 対象者の役に立っているか

です。

「まごころ」由来であるか

まずは、「善」なる行為が、「まごころ」に由来しているかです。
「まごころ」由来でないとされる要素は、こんなものが考えられます。

  • 褒められる・感謝されることが目的である
  • 恩恵を受けた相手を憐れみ、優位に立った気持ちを味わうことが目的である
  • 売名等、別のところで利益を得ることが目的である

別の場面で、悪いことをしていないか

行為自体の善悪とは別に、「偽善者」と呼ばれる要素として、「別の場面で悪いことをしている」場合が考えられます。

  • 子供を保護しているように見えるが、実はその子供に強制労働をさせている
  • 大金を寄付しているが、財源は、寄付として集めたお金を着服した残りである

対象者の役に立っているか

これらとは違う「偽善」として、「対象者の役に立っていない」「実は有害」な行動があります。

  • 天災の被災地に、特に求められていない千羽鶴を送る
  • 弱者を保護する名目で、実際のところ自由・人権を奪って拘束する

どんどんやるべき「偽善」と、やるだけ迷惑な「偽善」

いわゆる「やらない善よりやる偽善」が成り立つのは、上記で3つ挙げたうちのたった一つ、
「『まごころ』由来ではない(かもしれない)善行」です。
当然、「対象者の役には立っている」「世の中のためにはなっている」ものとします。

「実は悪いこととセットな善行」や、「単純に役立たずだったり有害だったりする善行」は、やらない方が世のためです。

これをわきまえず「やらない善よりやる偽善だ!」と信じて突き進んでしまうと、「善意の暴走」とか「正義の暴走」などと呼ばれる事態になってしまいます。

「東日本大震災の被災地は、原発のせいでなんてひどい目に遭ってるんだ! 福島全土・東北全土が汚染されているという事実を広め、発端を糾弾しなくては!」と、ありもしない「汚染」の事実を喧伝して風評加害を繰り広げるとか。 

「やらない善よりやる偽善」に似ていて、絶対に正しい命題がある

「やらない善よりやる偽善」は、「偽善」の定義次第で、必ずしも真ではないことがわかりました。
この言葉をもじった命題で、「必ず真」といえるものがあります。

「やらない最善より、やる次善」です。

やらない最善より、やる次善

物事には、「一番いいこと」「一番いいやり方」「最善」があります。
場合によって、「一番いい」何かなんてものは定義不可能だったり誰も知らなかったり、想像の世界にしか存在しないかもしれません。

一方で、「一番でないことは明確だが、まぁいいこと」「次善」というのも、いろいろと転がっているものです。

「一番いいこと」ではないからなー、とやらないでいるより、「一番ではないが、いいこと」をやる方が、状況は、世の中は良くなるよな、という命題です。

「最善の方法」を実行できないから、なんにも着手できないこと、あなたにもあるんじゃないでしょうか。

  • ダイエット
  • トレーニング
  • 投資
  • 勉強
  • 練習

とかとか。

迷っているくらいなら、やれ

筋トレは、「10回で限界の負荷を3セット」がいいとか言われています。
しかし、限界は12回になる負荷がいいのだとか、5セットくらいはやりなさいよとか、低負荷でもいいから総量を増やしなさいとか、いろんなことが言われています。

迷っていて何もしないくらいなら、やれ。

自分の信じる「最善」が「10回で限界の負荷を3セット」に定まっていたとしても、「家にはダンベルもないし、『30回できる腕立て伏せ』くらいしかできなー。だったら筋トレの意味がないなー」と考えてしまったりします。

理想じゃないからと何もしないくらいなら、やれ。

投資も「商品AとBは、年利5%が確保できるんだよなー。どっちがいいかなー」と最善を求めて何もしないよりは、「年利3%が確保できる商品C」を買った方がよいに決まっています。

やらないベストより、やるベターです。
「ベストを見定めたい」と、見えてるベターを放置している人。
大抵の場合、その待ち時間は無駄です。とりあえず、ベターをやりましょう。

まとめ

これまでご説明してきたとおり、「やらない善よりやる偽善」は、『偽善』の定義次第で嘘になってしまいます。自分の行動を正当化するのに「やらない善よりやる偽善」を使いたいときは、『偽善』をどのような意味で使っているのか、胸に手を当てて考えてみましょう。

「相手の役に立つ/世の中のためにはなるが、動機が『まごころ』じゃないんだよな」と思うなら、どんどんやってください。
そうでない『偽善』なら、やめておいた方がいいでしょう。

一方で、「やらない最善より、やる次善」は、常に真です。
「たぶんいい」「基本的にはいい」「もっといいやり方がある気がする」のであれば、「最善を求めて何もしない」より、「たぶんいい」次善の方を実行してみましょう。

そうすれば、新たな「最善」が見つかって、実行できるかもしれませんよ?

……私が、いまさらブログを新たに始めてみた、というのも、「ぐだぐだ迷っているよりは、実行して成功か失敗か白黒つけた方が、人生のためになる」と考えたからです。
できれば、「成功」で「最善」だったってことに、なるといいな!
(今井士郎)

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